この先にあるもの。


このところ自分の時間の使い方に一つの疑問を持っている。
自分の望む場所に安定した立場を確立した上で充実した毎日を送っている「つもり」になっている。
仕事に精を出せばそれだけの結果はついて来るが、
その「結果」というのは飽くまでその程度の「賞金」として手元に残るだけであり、
私自身根底の「糧」になるはずの「経験」として残っているか否かと問うと、口を噤んでしまう現実。


青臭い「夢」ではなく、泥臭い「目標」に向かって一歩一歩歩み続けている人間を見ると、
そのたび自分の手を見てしまう。





自分は、何の為、何処に行く為に歩いているのだ?




ふと思えば時間に「追われて」しまっている自分に気付く。
いつだったか、時間も金も立場すら忘れて我武者羅になっていた時期もあった。
だが、いつの間にか何か守る理由を見つけ足踏みをしていることに、殊更苛立ちを覚える。
一日を広げ、時間を楽しみ、エネルギーを使い切って眠ることのなんと美しいことか。
今、私は「為すべきことを成している」つもりで、実は「為されるままに耐えている」だけなのだ。




それではいけない。




それに気付いた以上、では私は先ず何をすべきか。
至極単純である。





目を開き、



息を吸い込み、



胸を張り、



背を伸ばし、



ただ前を見据え歩いていくのみ。







この手は何かを掴み取るために存在し、
この足はそこに走っていくために存在する。







燻っていた何かに火をつけなければならない。
一度消えた火を再び燃え上がらせるためには、
この湿気た身体を風に通し、汚れを落とし、零の状態に戻さなければ。










この月の末に、一つの火種がやってくる。
私はそれに燃え方を伝えると同時に、少しだけ、その火を貰うとしよう。







為すべきことは山と在る。
燻るのは、もうやめだ。