自由を掲げた男の旅の物語。





父がこの世を去った。










享年54歳、あまりにも残念な若さの旅立ちである。



バンドにスキー、ヨットに文芸と、多彩な趣味を持ち、
若干のちゃらんぽらんさから来る温和な人となりから
大勢の人から慕われていた父がこの世から姿を消した。






父は、別段能力の高い人間ではなく、むしろ何に秀でているわけではなかったけれども、
友人からすれば「仕方ないなあ、あいつだものな」と助けてもらえる人間であった。
だから、彼がいなくなることで仕事であるカウンセリングに大きな問題が出るわけではないし、
誰かが食えなくなるわけではなかった。











だが、多くの人が彼の損失に涙を流した。







僕もその中の一人である。
父として、親としての損失でない。









一人の人間を失ったことへの悲しみである。







彼は離婚して別居していたこともあり、
僕からすればたまに飲みにいく友人のような存在であった。
それぞれ最近付き合いのある女性の話をしたり、
今もっとも気になるニュースの話をしたり、
そして現在の僕の家庭の心配の話などをした。






僕からすれば、彼は、父であり、先輩であり、そして友であった。





そんな父が、突然息をひきとったのだ。










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それは僕たち家族が、家で平和に夕食を取っていたときのことだ。
買ってきたパック寿司をつまみながら、明後日から公開される話題の映画の前作が明日テレビロードショーされる、などと話していたときだと思う。突然、家の電話が鳴った。電話は父の親友からだ。彼は慌ててはいけないと思ったのか、ひどく冷静な様子で


「突然倒れた。心肺停止状態だ」


とだけ言った。
僕たちは耳を疑った。
父は、その親友と飲みにいき、そして二次会のカラオケでド派手に一曲披露したところであったらしい。
その直後、眠るように倒れたあと、動かなくなってしまった。



僕たちはすぐに車を走らせた。午後23時半ごろの話だ。
都心に向けて急速に車を走らせる。再度携帯電話が鳴る。
父の親友の話によると、どうやら一度息は吹き返したらしい。
意識がないものの、命は続いているのだ。
僕たちは、「おれたちが行けば、きっと大丈夫だ」と思っていた。
だって、家族なんだもの。おれたちの声があれば、きっとなんとかなる。そう思った。







病院にかつぎこまれた父は、いくつもの管に繋がれて、いつも通りに呼吸をしていた。
否、呼吸を「させられていた」。
本人は一旦蘇生したものの、実は自力で生存活動を行うのが難しく、肺も、心臓も、機械で動かしてもらっているのだと。
これからの一晩は、本人の精神力と体力の問題であると。
これを止めてしまうと、つまり、それは、彼の終わりを意味する。




僕たちは、ありったけの声を出した。




僕たちだけではない。
駆け付けた親族、友人たちの懸命な声が、彼の開かれない耳に投げつけられた。











おい起きろ、バンドの練習どうするんだメンバーみんな休みとってんのにお前こなくちゃできねえじゃねえか、そうだそうだベースがいなきゃライブもできねえぞとっとと起きろ、そうですよ呑みにいくんじゃないんですか、ぼく予定空けたんですよなんで寝てるんですか、親父起きろよおれまだ仕事決まってないよ、親父に豪華なメシおごるって言ったんだから早く起きてくれよ、パパ子どもたちが呼んでるよ、早く帰ってきてよ、おやじ、ベース教えてくれるんだろ、結婚式来てくれるんだろ、娘ができるって大喜びで同僚や友達に言いふらしたんだろ、早く帰っていろいろ教えてくれよ起きろよ、起きろ、早すぎるだろこんなの、早く起きろ、なんで目を開けないんだよ、なんでいつもみたいに「ヨォッ」って言ってくれないんだよ!頼むから起きてくれよ!


























だが、彼が戻ることはなかった。



















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悲しむ暇は与えられなかった。







僕は長男で、つまりは父の最も近い親類である。
つまり、父をこの後どうするのかという問題は、直接僕に渡されたことになる。
幸いにも前職で知り合った取引先に葬儀屋がいたため、そこにすぐに連絡を取り、ことなきをえた。


だが、想像を絶する苦痛と悲痛は、ここから始まったのだ。








金の問題である。








葬儀代は僕が出す、というのは喪主であるから当然として、
実は僕の家は由緒正しき家で祖父の代に築き上げた財産がある。
その財産は生まれるとともにそれはそれは大きな負の要素を持っていたわけだったが、
要するにそれを求めていざこざするのが、昔の僕の家の日常茶飯事であった。





父の実の姉も、義理の姉も、その息子も、なにも、かにも、僕には信用できない。
敵だらけ、である。





唯一信用できるのは弟と母。
僕たちはありったけの資料を集め、正の財産とそして膨大な額の負の財産を洗った。
仕事の合間を縫って、息つく暇もないほどの日々が続く。
弁護士、銀行、会計士、そして土地の権利書などなど。
朝早くから進捗会議、日中は外出し情報を集め、夜はまた進捗会議という激動の日々。



精神的に限界に近づく。
睡眠時間がほぼない日もあったし、何より眠れない日もあった。
酒を片手に涙を流した日も、そう少なくはなかった。




意外なほど業務を優秀にサポートしてくれた弟と
足りない知識、経験を補ってくれた母、
そして限界まで削れた心を支えてくれた恋人に
父の友人知人の色んなひとのおかげで、
なんとかかんとかタスクを消化していく、そんな日々がしばらく続いた。












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父が亡くなって、ひと月が経った。














四十九日の法要を終え、父は改めて仏となってこの世を去った。
線香の煙に包まれた墓石を前に、僕は手を合わせる。




少しずつ、僕たちはいつもの生活を取り戻してきている。






弟は法律の勉強に、母と僕は仕事にと忙しい。
もちろん相続関係の事柄はまだ続くのだけれど、
それでもひとつずつ片付いてきた。


残された厄介な手続きもだいぶ減ってきたし、
引っ越したばかりの父の家は業者を入れてまっさらになった。







名実ともに、父は僕たちの前から姿を消した。
父は、もういなくなったのだ。





いつもの大泉のコンビニで待ち合わせても、
「ヨォッ」と手をあげて歩いてくる
白髪のカウンセラーはもういない。







僕たちは、もうそろそろ自分の人生に戻らなくてはいけないのだ。






父さん、僕はもうそろそろ行くよ。










手を離して一礼をすると、雨上がりの蒸し暑さから染み出た汗が喪服に消えていく。
汗の匂いに反応してか、蚊が何匹か飛んできた。雲の切れ間から焼けるような日差しが差し込んでくる。
もう、すっかり夏だ。











僕はもう一度墓を振り返り、小さな声でつぶやいた。







「さようなら、父さん。」