大学のおける学生と教員の温度差

 近年、日本全国において教育の改正が叫ばれている。小学を始めとして中学、高校へと大きな影響を及ぼしている「ゆとり教育」の弊害、教員の「サラリーマン化」による教育に対するモチベーションの低下など、最早いち教育機関としての問題などではなく、大袈裟でなく日本の経済力を脅かす目を逸らすことの出来ない惨状に対してである。
 その中で今回、テーマとして「大学生と教員の温度差」を取り上げてみることにする。大変身近な問題であるがゆえに「大学生」側としての意見ならば容易に意見が挙げられるが、「教員」側としての考えは当然ながら持ち合わせていないので、資料を参考に自分なりの「大学生と教員の温度差」について考えてみた。
 まず第一に考えなければいけないのは、「大学とは何をする機関なのか」という問題である。従来は「高校を卒業した人間がさらなる学業的意欲、知識を高めていくために入学する、高校より高位の機関」だった大学。概念としては「習うのではなく、学ぶ」。つまり、教員側から出される料理を食べて記憶するのではなく、教員と共に料理を作り、作り方から材料を選出した理由を考察したり、また自分で材料を調達しにいったりすることによって、社会環境や自分の立ち位置などを「経験」として会得していくのが、本来の「大学」のやり方なのである。
 ところが昨今では、年々受験のレベルが低下してきている。ゆとり教育の弊害かどうかは定かではないが、学生全体の「学習」に対する意欲の低下がそのまま学力に直結しているのだ。圧力による学習形態によって「病んでいる」学生が大量に発生され、いわゆる「スパルタ」教育形態が非難された90年代までを省み、現在では「こころのケア」を中心に考察が始まったためか、「なるべくストレスを感じない学習形態に」をコンセプトに作られたのが「ゆとり教育」なのだ。週休2日制を確立させたまではいいが、授業で教える内容すらもレベルの低下を続けている。代表的なものとして円周率や面積や体積の求め方などが挙げられるが、これには「3.14」世代の人間からすれば思考放棄も甚だしい。小数が関わるか否かというだけで大きく計算が変わるというのに(実際は3.1415……と無限にあるので当然全ては計算できないが)、頭を使う動作を少しでも減らす教育はまるで生徒のためにはならないのではないだろうか。またこの原因の一つとしては「情報」の授業の追加が考えられる。パソコンを使うのが前提の世の中で、一体どれほどの人間が漢字をきちんと書くことができるのだろうか。自分で覚えなくともパソコンがボタン一つで変換してくれるのだ。これほど楽なものはない。
 このような背景があったおかげで、近々「大学全入」時代がやってくる。「苦しい受験を越えた、選ばれた学生」だけが入学できた大学は形を変え、単純に「高校の上位機関」という概念で運営が行なわれる大学。所属する生徒の学力などたかが知れている現代で、このままの講義形態で果たしてどれほどの生徒が社会に胸を張って羽ばたけるほどの学力を身につけられるのか。生徒は背筋を伸ばして「大学では非常に有意義な講義をして頂き、私は知識と経験を豊富に蓄えることが出来ました!」と言えるのだろうか。
 答えは、NOである。
 大学の教授たちは総じて「研究家」である。自分の研究したいことをサポートしてくれる機関として「大学」、「大学院」を選ぶわけで、多くの教授は決して「生徒にこんなことを教えたい!」「自分の学んできたことを生徒にわかってほしい」などと思っているわけではないわけである。
 それも当然、先述したように本来「大学」とは「研究する、学ぶ」機関であったからだ。学生達は自分の意志で研究に取り組み、教授と共に時には教えを乞い、時には手を取り合って知識と経験を昇華させていったのだが、ところが現在では環境そのものが違う。
 求められるのは、「お子様」化した学生たちを「教育」する「先生」たちである。考えてみれば情けない話で、本当ならば小学校、中学校の時点で理解していなければならない「やらなくてはならないことをやる」という理念が学生達に欠如しているし、高校後半で気づかなければならない「自分を成長させるのは、自分である」という概念が学生達には欠落しているのだ。その尻拭いを「大学」にさせるというのだから、将来は暗い。
 さてそのためには否が応でも大学側は「教育」の準備をしなくてはならないのだが、「前世代の考え」を持っている教授と、ひっきりなしに世代交代をする「現代の生徒」との温度差は、非常に激しい。そのために実害や考え方の相違が存在し、その対応にてこずっているのが現在の大学の姿なのである。これから「大学の講義の何に問題があるか」を見ていくことにする。
 まず生徒として浮かんだのは、「講義のテレビ化」である。生徒に干渉しない教授が一人で自分のペースで講義をしているとなると、それは生徒たちにとっては「非現実」たりえるもので、それはつまり「テレビ」を観ているのとそう大差ない状況になりえるのである。つまりテレビを観ている人間はその前で私語を発したり本を読んだりケータイをいじるのは至極当然のことだと思っており、またそのような環境に陥っても干渉をしない教授はまた余計に「テレビ」化が進んでしまうのである。
 講義の長さも問題になっている。心理学的、行動学的に考えていても90分も同じ内容を聞かされるのは苦痛だ、と言われるのは常で、実際教授側が学会に参加するにしても、能動的に参加するのならまだしも、受動的に聞かされる話に90分、それも大学でいう2限や3限という連続した段階を踏まれてしまったら疲労は隠せないはずだ。それでも教授がそういった講義を行なってしまうのは、「テレビ化」と「講義は仕事であるという概念」から来ているのだと自分は考える。
 議題は「教授の考え方と生徒の考え方、どちらが正しいか」ではない。こうなってしまった以上、建設的に「どのような妥協案が双方のために役立つのか」である。
 「目的」を持った生徒は強い。とある工学系の大学教授はこう語る。
「生徒に共通の目的を持たせることは、そのまま自分の行き方を考えるヒントになります。出来たら褒める、出来なかったら励ます。私はそうやって、生徒と接して共に楽しんできました」
 本来高校や中学で教えることではあるが、「大学生」であるという年齢的な時間の自由さ、経済力があるからこそ出来る「目的達成」もある。そんな教育をしていることから、その教授の持つ生徒は非常に強いのだと言われている。
 ただ、「楽しい授業」をやれば生徒はそちらに流れていくぶん、社会的に「義務を果たす」認識は薄れる一方(これは大学が生徒に歩み寄る形)で、「厳しい授業」を行えばそのぶん「知識」が伸びるとしても、肝心の生徒たちのモチベーションを促せない(生徒が大学に歩み寄る形)。このバランスが難しいのである。
 このような事実がある中で、今後教員と生徒はどのように接していけばいいのか。上記の教授のように中学生のように「青春」を謳歌させるか、あるいは積極的に「講義」に集中させるか。この問題を解決させるには、いずれの方法を取るにせよ相当な時間を要するだろう。そもそもの問題は大学教授にだけあるわけではないと先述した通り、「もっと生徒とコミュニケーションをすべき」教授と、「今までよりも積極的に勉学に取り組む、もしくは教授の話を聞こうとする」生徒の双方のモラルが確立するまでは、まだしばらくかかりそうだ。
 あらゆる側面から見ても、大学を終点とした「教育問題」は日本の抱える重大な問題である。望まれていない改革を行う前に、本当に直すべきところを直せる人間が直して欲しいと、切に願うばかりである。