突然ですが、質問。
人の幸福って、どこで決まるんでしょーか。


「一定の収入」とか「家族が暮らせること」とか「おいしくご飯が食べられること」とか「恋人とずっと一緒にいられること」とか?


例えば山田くんが「僕は家族がみな健康で暮らしているから幸福だなあ」と思っていたとして、佐藤くんの家もみな健康で暮らしているから幸福かといったら、そうではない。
「みな健康で暮らしているから」幸福なのは山田くんの持っている「幸福論」であり、佐藤くんの「幸福論」では決してない。極論を言ってしまうと、堀口くんが「今週はガンダムのアニメが再放送されるから幸福だなあ」と思っても、金子くんがそのガンダムのアニメを好きでない限り、それは金子くんにとっての幸福ではないのである。
山田くんが「みな健康で暮らしているから」幸福論を持ち、
堀口くんが「今週はガンダムのアニメが再放送されるから」幸福論を持っているとして、
では佐藤くんや金子くんは「幸福」ではないのだろうか。


なるほど確かに山田くんないしは堀口くんからすれば佐藤くんないし金子くんは「幸福」ではないだろう。ただそれは彼ら(山田や堀口)の幸福論にあてはめた場合で、この際彼ら(佐藤、金子)の幸福論は計算に入っていない。
もし佐藤の幸福論が「家族がみなたまに病気をするから、助け合いの心が生まれて幸福だなあ」と思っていたとしたら、山田の幸福論とはまったく反対となる。
また、もし佐藤の幸福論が「家族がみな健康で暮らしているから、『収入が安定して』幸福だなあ」と思っていた場合、山田の幸福論と非常に酷似はしているものの、やはり別物にすぎない。ここで勘違いしてはいけないのは、「思想の中身に同じ部分が共通していれば幸福論は同じではないのか」という点だが、思想論に「佐藤≧山田」などという概念は存在しない。一文字でも違えばそれは「まったく別の幸福論」となってしまうのだ。


ここで山田が「佐藤も僕と似てるじゃないか、僕も君も同じ幸福を持っているんだね」と言ったとして、果たして佐藤は納得するだろうか。
この際問題となるのは佐藤が受け入れるか受け入れないかではなく、「山田が自分の幸福論を佐藤に押し付けようとした」ことにある。悪意がある、ないに関係なく、相手に自分の思想を被せようとすることは、即ち持論の強姦である。実際の強姦では滾る性欲をぶつけるわけだが、この場合では自身の思想をぶちまけることで、相手を自分の「範囲内」に押しとどめようとしているのだ。
ここで見逃してはならないのは、上記の話は別に「幸福論」に限ったことではないということ。
幸福論を始めとした「持論」そのものの押し付けほど傲慢なことはない。


さて、路線がずれたのでちょっと戻す。ごとん。
上で散々言っていた幸福論だが、人それぞれで違うのはもちろんのこと、「その人の中でも常に動いている」のである。今日持っていた幸福論が翌日も持ち越されるとは限らない。山田の幸福論が翌日には佐藤のそれになっているかもしれないし、また逆も十分にありうる。
ただ、そのような「幸福論の書き換え」が起きる時は、えてして何かしらの「転機」が訪れているのである。例えば山田が佐藤の意見に賛同したとか、山田の妻が「健康だけでは暮らしていけない」と山田の幸福論の根底を覆した場合だ。
上記に「持論の押し付けはよくない」と書いたが、本人が周囲から影響を受けるのとは話が完全に別である。偶然「押し付けによって影響が生じる」こともあるが、それは本人が納得済みなので問題はない。
して、幸福論が書き換えられたとして、山田の今までの幸福論は「幸福」としてのアイデンティティを失うのか。答えはNOである。そう、それまでの幸福論があったからこそ「書き換え」が存在するわけで、たとえ現在の幸福論こそが一番であると考えていたとしても、以前の幸福論は「不要」ではないはずである。
大切なのは、良悪に関わらず過去の幸福論を生かすこと。
無駄な経験など存在しない。仮に現在、前までの自分が不幸であったと考えていても、それは捉え方次第で如何様にも「幸福」に代わるのである。そう、最初に記したように、幸福論に決まった形はないのだから。
悪い経験をしたと考えるなら、同じことを繰り返さなければよいこと。
良い経験をしたと考えるなら、同じことを繰り返せばよいこと。


幸福に大小は存在しない。本当に小さいことから自分なりの「幸福」を見つけることで、「今の幸福論」は展開されるのだ。
例えば、明日から以下のことをやってみるといい。


朝起きてから夜寝るまでに、いくつラッキーがあったかを数えてみよう。
どんなちいさなことでも構わない。偶然電車に間に合ったとか、カッコイイ人を見かけたとか、踏み切りが早く上がったとか。
夜寝る前にそのラッキーの数をカウントしてみよう。その数が昨日より多かったらハッピー。少なかったら翌日はもっと増やそうと思えばいい。そうなると強引にラッキーが増えるはずだ。


実際やってみると、思った以上に自分はラッキーだと気づく。
もし悪いことばかり起きたとしても、それはあとでラッキーがまとめてくるための布石であるから気にすることはない。
世の中の幸福量は常に一定なのだから、自分の手でどこまで掴んでやるかが早い者勝ち勝負なのだ。


生きている以上、「事象」というものは常にやってくる。
要は、それを「ラッキー」と取るかそうでないかだ。
電車に乗れなかったからアンラッキー? ちょっと一息、ジュース買う時間できたからラッキー?
それはアナタ次第なのである。



好きな人にフラれた? じゃ、もっといい人に会えるね。ラッキー。